ギリシャとイタリア

そもそもの発端はギリシャ危機なんだけど、それ関連のニュースなどを見るたびに思い出すのが、塩野七生著「ローマ人の物語」に出てくる古代ギリシア人のこと。たとえば、↓は紀元前八世紀頃、ギリシア人が地中海沿岸に多くの諸都市(これらの総称が「大ギリシア」)を築いていた頃の記述。

彼らは、すべてはもっていても団結の精神とは無縁だった。「大ギリシア」の諸都市の間でさえ、共同して戦うことなど一度としてなかった。

塩野七生著「ローマ人の物語」「第一章 ローマ誕生 イタリアのギリシア人」より

その後も、

ローマ人は一人も登場しないが、これから述べるペルシア戦役も、ローマ人を理解するには避けて通れないギリシア人理解のうえで、「格好の素材」なのである。なにしろ内ゲバの激しさに特色のあるギリシア史には珍しく、ペルシア戦役は、全ギリシアが一致して敵にあたった最初にして最後の例でもあった。

塩野七生著「ローマ人の物語」「第二章 共和政ローマ ペルシア戦役」より

第一次ペルシア戦役が勃発したのは紀元前492年。挙国一致でペルシアに勝利したけど、すぐにアテネを中心とする「デロス同盟」とスパルタを中心とする「ペロポネソス同盟」に分かれて冷戦・政争再開。これは紀元前431年にアテネとスパルタが直接対決する「ペロポネソス戦役」まで続く。この戦役は27年続き紀元前404年スパルタの勝利で幕を閉じる。しかしスパルタの時代も長続きせず、紀元前338年カイロネイアの戦いでマケドニアに敗れ、ギリシア人は覇権を失う。スパルタだけはマケドニアに反抗していたが、これも紀元前331年のメガロポリスの戦いで鎮圧された。

後にローマ帝国を築くことになるローマ人にとって、当時のギリシアは先進国。調査団を送ったり、通商路を伝わってくるギリシアの情報をつぶさに集めていた。乱暴に言えば、古代ローマはスパルタの質実剛健さと、アテネ開明さを併せ持った国を目指したのかな。そのギリシアに学んだローマ帝国の中心地だった今のイタリアが次の発火点になるかもしれないと見られているのは何かの因果か。こじつけ過ぎだなw。

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ローマ人の物語 (1) ローマは一日にして成らず

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